新・『第三次性徴世界シリーズ』・9
天女中学校剣道場の巻
笛地静恵
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 その日。男子専用の運動場入り口。女子バスケットボール部の五名が、試合の時そのま
まの、ワインレッドのブルマーと体操服で、颯爽と姿を現したのは、夕暮れの四時を、少
し回った刻限であったという。
 四月の変わりやすい天候に、午前中までは真っ青に晴れていた空も、黒く重い雨雲を低
く垂れ篭めさせていた。風が出てきていた。先頭を、男子生徒ならば、だれ知らぬ者はな
い『姐御のマリヤ』が、すたすたと大股で歩いていた。
 彼女の眉間は遺恨を含んで、黒い殺気を漂わせていた。怒りの感情を漲らせた美しい顔
は、凄絶なまでに輝いて見えたという。グランドの周囲に植えられている葉桜の木よりも、
なお大きな女たちの進軍だった。すでにグラウンドに土の泥に同化しつつあった、無数の
花びらの遺体を踏み潰していった。
 男子専用の運動場は、本校舎とは少し離れたところにある。学校の方は、女子の運動部
に占領されていた。一緒の部活動には、さまざまな危険があった。それで、この場所が容
易されたのだった。野球部に、サッカー部、陸上競技部が共同で使用するグランドと、古
い学校の瓦屋根の平屋の木造校舎を、そのまま改造して使用している、柔道場と剣道場の
道場が、それに各部室の入った建物が三つ並行して立てられていた。
 それから、二十数年か経過している。今まで、女子生徒でこの男子運動場に、足を踏み
入れたものは、ほとんど皆無だった。学則で禁止されていたのではない。いつのころから
の不文律だった。女子生徒はマネージャー以外は、立ち入らないという決まりになってい
た。そして、女子で男子の部活のマネージャーになるような物好きな者は、ほとんどいな
かったのだ。
 その掟を、姐御のマリヤが破ったのだ。なぜ、マリヤが男子の運動部に、姐御と呼ばれ
ているかと言うと、校外でのマラソンなどのトレーニングに、彼女が暇があると気軽に付
き合って、一緒に汗を流していたからである。
 入り口では、これもだれ知らぬ者はない、天女中学校ナンバー1の美少女であるタカコ
が、口元に両手を当てていた。マイクがなくても、全運動場に響き渡る美声であった。事
情を説明していた。女子バスケットボール部の副部長でもある人物だった。
「男子の運動部員のみなさん、練習の邪魔をして申し訳ありません。私達は、剣道部の主
将である箕島剛介さんに、止むを得ぬお話があって、ここに来ました。他の方の邪魔をす
るつもりはないので、そのまま練習を続行してください」
 彼女を先頭に、他の三名の部員である、真理、ヨッシー、カオリンがこの身長の順番で、
一列になって整然と後に続いた。印象的な一行だった。3メートル半を越える美少女達の
行進なのだった。俯き加減で、恥ずかしそうに背を丸めて歩いていても、やっぱり大きか
った。タカコは桜の木の枝に、風に飛ばされて引っ掛かっていた、野球部の誰かの帽子に
気が付いて、ひょいと投げ落としたのだった。男子には梯子でもないと、手が届かない場
所だった。
 女子バスケットボール部は、なぜか本番の試合には弱いが、粒揃いのスタイルの良い美
少女がいることで、男子には評判の部だったのである。赤いワインレッドのブルマーから
のびた生足だけでも、刺激的な眺めだった。ブルマーのサイドには白線が入っていて、そ
れをさらに強調していた。
 マリヤは、怪奇な羽を持つ恐竜が蹲っているような、銀黒の瓦屋根の剣道部の道場の屋
根の下に、這入ってしまっていた。瓦は日差しを眩く反射して、鱗のように煌めいてた。
 他のバスケット部の四名は、タカコの指示に従って、剣道場の東西南北を包囲するよう
にしていった。何かの結界を貼っているような、整然とした動き方だった。外側を向いて、
腕組みをして立っていた。この中から、誰も入れない出さないという意思表示であること
は、明らかだった。
 彼女たちの美しい顔は、真理を覗いて、平屋の木造建築である剣道場の瓦屋根の上に、
大きく飛び出していた。
「ちいちゃいね。犬小屋みたい」
 そう真理がいった。タカコに小声で、しっと注意されていた。
 思わぬ闖入者に、茫然としていた男子運動部員たちも、剣道場の周りに次第に集まって
来ていた。彼女たちは、その足元を潜って、野次馬が剣道場の窓に群がるのを、別に何に
も妨げなかったからである。むしろ、歓迎しているようなそぶりさえ見せていた。
 何かたいへんなことが起こるのは、確実な状況だった。血の雨が降りそうだった。それ
を見逃す手はなかった。天女中学校の前の番長である白田信晃が、闇討ちにあったという
噂は、全校に知れ渡っていた。サンドイッチの具にしていたマリヤが、黙っているはずも
なかった。すぐに、その場にいた、ほとんど全部の男子生徒が、剣道場の周りに集合して
しまっていた。
 通称マリヤは、剣道場の中央に進んで、その場所に正座をしていた。周囲には動かざる
こと山の如しというように、重厚な雰囲気を漂わせていた。その身体自体が、小山のよう
に大きかった。体重に、剣道場の厚さ一寸五分の桧の床板が軋んで、やや凹んでいた。周
囲には、剣道部員が、竹刀や木刀を持って、隙あらば、切り付けてやるというまでに、殺
気立っていた。
 マリヤの正面には、剣道部主将の箕島剛介が、「至誠」という二文字を墨痕りんりと書い
た、大きな書を背景にして、やはり正座していた。
 箕島の眼は大きい。が、白目が多い。特徴的なのは、その虹彩だった。真円ではなくて、
縦長なのだった。猫科の動物という印象を強めていた。下級生などは、その眼で睨まれる
と、小便をちびりそうになるほどに、緊張すると噂していたのを、マリヤはどこかで耳に
したことがあった。
 彼の頭上には、毎朝、榊と水を取り替える神棚が、重々しく鎮座ましましていた。宗教
に偏見はないが、儀式張った男だと、マリヤは思った。白田の万事に拘らない無手勝流と、
好対照をなしていた。
 マリヤは、黒い髪に指を当てて、掻き揚げるようにしていた。剣道場の木の床の下の根
太は、マリヤの巨大な体重に、みしみしと不安に軋んでいたのだった。無理もない。築二
十年以上の時間が経過していた。もともと、古い建物を改築したものだという。マリヤは、
不必要な体重を掛けないように、釘の打ってある上だけを選んで歩いていった。床を踏み
抜きたくはなかったのだ。剣道部を侮辱するつもりはない。相手は一人だった。
 男子が精一杯に竹刀を振り上げる剣道場といっても、天井までは、四メートルもない。
完全に旧世界の男性用の作り方である。三メートル六十センチはあるマリヤは、腰を屈め
て頭に注意していなければならない。照明用のこれも時代物の蛍光灯に、頭をぶつけそう
になるたのだった。
 興奮していた彼女は、入り口の照明器具にボブの短い髪を絡ませてしまった。悪いこと
に、そこには真新しい蜘蛛の巣があって、干涸びた虫たちと一緒に、糸が髪に絡んでしま
ったのだった。取るのに苦労した。前途の多難を象徴しているような気がした。無難には、
納まらないかもしれなかった。
 それで、見るからに窮屈そうに、小さく畏まっていた。両の太ももの間に、両手を差し
込んでいた。肩幅も狭くしていた。正座しているといっても、壁に直立している部員の視
線との間に、それほどの高低はなかった。
 マリヤは、自分がこの場所には場違いなまでに、大きいことを意識していた。その上に、
彼女は意識していないが、緊張のあまり油汗を浮かべていた。そこから発散される女らし
い汗の香が、何も語らずとも、若者たちの欲情を駆り立ててしまっていたのである。連中
は袴の下にも、一本の小刀を隠し持っていた。
 もちろん剣道場には、素直に入れた訳ではない。
「箕島に、用があるの、入るわよ」
 それだけをいって、水で埃を洗い清めた玄関に、五十センチメートルの巨大な黒い運動
靴を脱ぎ捨てて、押し通ろうとするマリヤとの間で、一悶着あったのだった。剣道場は、
女人禁制とされている。
「玄関で、お待ちください」
 部員達は両手を開いて、必死に制止していた。それを振り払って来たのだった。
 マリヤは女子バスケットボール部にとっての、試合の時の制服である赤いブルマーと、
同色のラインが、衿と袖に細く入った白い体操着という軽装だった。
 そのブルマーから伸びた生足に、必死にしがみついてくる。進行を食い止めようとする。
そんな部員たちの努力を、マリヤは全く問題にしなかった。片方だけで、一度に四、五人
が群がった脚を、そのまま、ひきずっていた。次々に木の床板の上に、子犬のように払い
落としていった。
「おやめください」
「やめないわ」
 そんな押問答があった。姐御に好意を持つものも、多くは、困ったような状態の者が、
ほとんどだった。
 しかし、血気盛んな若者の一人が、木刀でいきなり殴りかかってきたのだった。マリヤ
は、それを発止と素手で受けとめた。木刀を、そのまま二つに折って、握り潰してしまっ
た。彼女には、木の箸にきましの、太さと長さしかなかったからだ。自分の力をアピール
して、穏便に済ますつもりだった。しかし、これは、逆効果だった。
 剣道部のたましいを、穢したことになってしまったのである。
 しまったと思ったが、後の祭りだった。素手の剣道部員の手に、木刀や竹刀を持たせて
しまったのだった。
 自分が、少し頭に血が上っているのが分かった。タカコにも冷静になれと忠告されてい
た。が、無理な状況だった。
「あなたたちには用がないの。箕島と話したいだけよ!」
 そこに、奥の部屋から、箕島本人が、ずいっと出てきたのだった。
「やめろ」
 その一喝で、あれほどに興奮していた部員達を、鎮めてしまった。力のある男だった。
「奥へ、どうぞ」
 拍子抜けするほどに、素直に案内されたのだった。もちろん、何か考えがあるのだろう。
箕島は、「なかなかの策士と評判よ」と、タカコにも教えられていた。しかし、こっちには
切札があるのだった。マリヤは、左胸のブラジャーの上に、無意識に手を当てていた。
 マリヤが、剣道部に単身、殴り込みを掛けたという噂は、もう運動場中を、嵐のように
駆け巡っていた。マリヤも、大観衆が左右に大きく開いた格子窓に、鈴なりになっている
のを眺めて舌打ちしていた。タカコは、証人は多いほうが良いといっていた。が、多すぎ
るような気がした。運動部の大会のようではないか。お祭騒ぎにするつもりはなかった。
見せ物になるのは、いやだった。
 剣道部の部室の大きく開いた入り口にも、押すな押すなの盛況ぶりだった。その向こう
には、ピンクの脚しか見えなかった。長年の付き合いで、それが、タカコのものだと見当
がついていた。力強い光景だった。一人で行くというマリヤを、みんなが止めたのだった。
「あんたじゃなくて、男の子たちが心配だからよ」
 そうタカコに説得されると、嫌とは言えなかった。自分が、かっとなりやすい性格であ
ることは、誰よりも承知していた。
 こんな騒ぎでも、箕島本人は、いささかも動じている様子を見せなかった。端正な白面
の美青年だった。あまりにも整い過ぎている。感情に乏しい。能面のようだとマリヤは思
う。同じ美青年でも、白田とはだいぶ違う。あちらを火だとすれば、こちらは氷だった。
 白田信晃のことを思い出すと、胸がきゅんと痛んだ。
 昨夜、下校途中の道でのことである。闇討ちにあったのだった。
 目撃者の話では、オートバイが三台、不意に三方から襲いかかってきたのだという。
 全員が、鉄パイプを持って武装していた。一台の鉄パイプの下を、身軽に掻い潜った白
田の顔を、二台目のバイクの男のパイプが瞬時に襲った。白田は、右腕を上げて反射的に
顔面をかばった。その結果、腕の骨の複雑骨折だけで済んだのだという。
 そうしていなければ、頭蓋骨陥没で死んでいたというのが、医師の判断だった。
 そして、三台目のバイクの男のパイプが突進してきた。冷酷に右腕の動かなくなった、
ガードの隙をついていた。白田の右腹部を、思いっきり強打していた。肋骨を三本折った。
幸い内臓には、食い込んでいなかった。三人の男は倒れた白田を、さらに一回ずつ鉄パイ
プで殴って、そのままバイクで逃走したという。
 マリヤは、包帯で手と顔をぐるぐる巻きにされた白田の、ベッドの脇で静かに復讐を誓
ってきたのだった。泣かなかった。泣くのは、違うと思った。彼が退院してくれた後で、
どこかで一人で泣けばいいのだ。
 マリヤは、犯人の見当がついていた。
 白田が、番長をしていた、いわゆる『青銅騎士団』のしわざに間違いはなかった。朝か
ら復讐してやろうと思った。が、タカコの助言にしたがって、証拠を見付けるのに、午後
まで手間取ってしまった。彼女は本当に頭が良い。その計画通りに動いていると、すべて
が旨く行った。予想は、ぴたりぴたりと当たっていた。敵に回したくない女だった。
 そして、主犯格の男である箕島と、向かい合っているのだった。彼が『青銅騎士団』の
ナンバー1の座を巡って、白田と対抗していた事実も掴んでいた。
 箕島の右脇には、明らかに真剣と分かる日本刀が置かれていた。マリヤは、そんなもの
は恐くもなんともなかった。ただの薄い鉄に過ぎなかった。箕島の三白眼の猫目を、じっ
と睨み据えていた。
 箕島は、マリヤよりも一段高い床に座っていたが、マリヤの座高は、彼を悠然と見下ろ
すに十分な高さがあった。
 沈黙の睨み合いに耐え切れずに、最初に口を開いたのは、箕島の方だった。マリヤの方
は、あと一時間ぐらいは、軽蔑をこめて、見下していたかったのだが。
「これは、これは。女子バスケットボール主将のマリヤ女史が、わざわざこのようなむさ
苦しい剣道部に御出で下さるなんて、光栄の至りです」
 箕島の声は、男としても高かった。高い鷲鼻の骨に反響するように、良く響いていた。
カラオケが旨いのじゃないかしらと、マリヤは考えていた。
「ついに、弱小女子バスケットボール部に見切りを付けて、わが栄光の剣道部のマネージ
ャーをして頂けるんでしょうか?」
 箕島剛介は、壁の賞状の列に目を遊ばせていた。これは、ほとんど彼一人の功績で勝ち
取って来たものだった。そのために、先輩の三年生を押さえて、二年生に成り立てで、堂々
と主将の座についているのだった。
「汚れ物ならば、裏手の洗濯機に、山になっていますが……。マリヤ様の熟練の足技なら
ば、すぐに汚れが落ちて、きれいになると思いますよ」
 箕島の軽口に、剣道部員の間からも失笑が起こっていた。
「冗談じゃないわ。今日は、あなただけに、用があって来たのよ。箕島剛介」
 意識的に呼び捨てにした。再び、場内に殺気が漲った。心地よい変化だった。こうでな
くてはならない。
「はて……、用とはなんでしょうか?私は姐御の評判の高い、足技には用がありませんが
……。もっとも、内の者の中でも、姉御に、軽く一本取られたものは、何人もいるようで
すが……」
 くすくす笑いが起こっていた。それは、爆笑にまで高まっていた。窓の外の群衆まで笑
っていた。マリヤは、動じなかった。箕島から視線を外さなかった。こいつらは、なぜ自
分が苦労して、お金を貯めているのか、全然分かっていないのだ。
「いつでもおいでなさいな。お相手をしてあげるから」
「私は、白田某のように、意気地なしでないので、願い下げにして頂きたいですな」
 白田の名前が出ると、マリヤは冷静ではいられなかった。
「勘違いしてもらいたくないので、言ってわ。これは、私の一存でしていることです。白
田信晃君には、何の関係もないわ」
「白田信晃氏が、災禍に会われたことは、私も耳にしております。痛ましい事件でしたな
あ……」
「やっと、用件に入れるわ。それについて、お聞きしたいことがあって、ここにやって来
たのよ」
 自分の顔に、血が上っているのが分かった。顔が熱かった。
「姐御」
「何かしら?」
「白田さんに、惚れてますね?」
 マリヤは、返事を躊躇わなかった。自分でも意外だった。即答できた。
「ええ、惚れてるわ!大好きよ!」
 そして、それが真実であることを確認していた。
「ほほう……、そこまで、はっきりと、断言されるとは……。いやあ、白田さんも、男冥
利につきるというもので……」
「これで、満足かしら?」
「はい」
「箕島」
「はい?」
「あなたって、最低の男ね」
「これは、これは、姐御の口から、そこまで言っていただけるとは……。男としては、最
高の名誉ですよ」
「それじゃあ、私の質問にも、男として正直に答えてくれるわよね?」
「はい」
「白田をやったのは、あなたね?」
「さあ、それは……」
「昨夜のことよ。夜十時ごろ。あなたは、どこにいたのかしら?」
「部員と、剣道の練習に励んでおりましたが」
「アリバイとしては、弱いわよねえ」
「いや、その……、白田さんは、ここのところ、いろいろと男たちからは、そのう……、
反感を持たれていましたからねえ……。姐御の、そのう……」
「サンドイッチね」
「そうそう、それです。だから、彼は、あまりにも多くの人数の敵を、学校内外に、作っ
ておりました。誰に、襲撃を受けたのかということは、私にも、皆目、見当がつきかねま
す」
「……そうなの」
 マリヤは、大きなため息をついていた。
「白状して、白田信晃君に、謝罪してくれれば、この場は、穏やかに帰ろうと思っていた
んだけどなあ……、やっぱ、無理みたいね。……残念だわ」
「姐御の、お心に沿えず、残念です」
「そうね。それじゃ、まず、これを見てちょうだい」
 マリヤは、体操服の下のブラジャーの紐に、大事に挟み込んでいた、小さく折り畳まれ
た紙を、指先に摘んで取り出した。長方形の紙にさっと広げる。箕島と直角になるように、
ぴたりと床に置いた。
「『青銅騎士団』副団長箕島剛介。白田信晃襲撃事件のために書かれた、三人の副団長の『誓
約書』よ。血判状なんて、大時代な形式を踏んでいるから、証拠書類としては完璧よね。
指紋が、くっきりと、浮かんでいるもの。その絆創膏を貼った親指を、ここに並べて押し
てもらえるかしら?」
 マリヤは、箕島剛介の名前の上を、指先でとんと叩いた。
 箕島の端正な顔が、始めて醜く歪んでいた。無意識に左手の親指を、袴の脇に入れてい
た。
「貴様、どうしてこれを?」
「あなたが、自分で言ったでしょ?私の足技にかかれば、男なんて、イチコロなのよ」
「あいつら、裏切ったな!」
 箕島は、歯を剥き出して歯軋りしていた。
 その手に、日本刀が握られていた。抜く手も見せずに、鞘が払われていた。抜き身が青
く光っていた。
「他の二人の副団長さんは、素直に謝罪してくれたわよ」
 マリヤは、『誓約書』を、ゆっくりと再び胸元にしまいこんだ。重要な証拠書類なのだ。
「マリヤ、おれの神聖な剣道場に、女の汚れた身で単身入り込んで、無傷で帰れるとは、
まさか思っていないだろうな?」
「私と、勝負してみるつもりなのかしら?」
 マリヤは、その場所に、悠然と端座していた。
「その不様に膨れ上がった身体に、二度と忘れられぬようなお仕置きの印を、刻んでやろ
う。みんな……」
 箕島が、「かかれ!」という号令を掛ける寸前だった。
「お待ちなさい!!」
 剣道場にも、かつて轟いたことのないような大音声が響き渡った。
 それは、殺気立って、中腰になっていた剣道部員の出足を止めるのに、十分な迫力を持
っていた。戦場往来の声というのがこれだった。
「私と、箕島君だけの問題よ。他の者は、絶対に手を出さないでちょうだい。怪我をして
もしらないわよ」
 箕島は、瞬間に、自分の劣勢を悟っていた。
 ケエイ。
 飛鳥のような気合いとともに、真剣の必殺の突きを、マリヤの体操服の上に覗いている
白い喉に突き出していた。
 これ以上、男がこの生意気な女に舐められてたまるか。すべての、決着は、自分が付け
る。
 そんな気合いの入った一撃だった。
 「山猫づき」と、天下を恐れさせた妙技である。
 しかし、次の瞬間、箕島は信じられない光景を見ていたのだった。
 彼の抜けば玉散る氷の刃、名刀関野孫六の刀身を、マリヤの白い手の指が、がっしりと
万力のように掴んでいたのだった。押しても、引いても、刀はぴくりとも動かせなかった。
 箕島剛介は、最近の剣道界でも、十年に一度の逸材と評価されていた。高校生になって
からでも、破竹の十六連勝を続けていた。剣道界の北斗と呼ばれて、玄人筋からも賛嘆さ
れていた。一年生から頭角を現していた。その彼の剣が、ずぶの素人の女子に阻まれたの
である。
 場内は、水を打ったように、静まり返っていた。
「これで、終わりなの?」
 マリヤは、片手で、箕島が両手で握り締めた剣を、無造作にぐいっと引き抜いた。その
まま、空中に投げ飛ばした。ぴーん。天井に突きささった。その状態で、ゆらゆらと、と
どまっていた。
 しかし、さすがに箕島だった。これでも、挫けなかった。
 隣の副主将の木刀を掴むと、今度は、上段の構えで、床を滑るようにすすんできた。
 女の腕は長い。男の見当で見切っていると、間違うのだった。しかも、マリヤの動きは、
箕島の野獣と呼ばれた運動神経を越えて俊敏だった。太刀筋が読めているのだった。完璧
に見えているのだった。さっきのは、偶然でも、目の迷いでもなかった。
 マリヤは、木刀を手がたなで無造作に叩き落とした。
 そのまま、箕島剛介の胴体を羽交い締めにして、抱き留めるようにしていた。上半身を
傾けていった。
 胸の重さを彼の上に乗せていった。箕島の袴の膝が、剣道場の木の床についた。
 主将の腰が砕けた。
 そのまま、マリヤの巨体の下敷きになっていった。どすんと倒れた。じたばたと猫に玩
ばれる鼠のように、わざと自由に暴れさせておいた。乳房の下に、生まれたばかりの赤子
のように、押し潰してやった。
 箕島はマリヤの女の身体の下から、脱出することすら出来なかった。
 しかし、それでもなお体操服とブラジャーの上から、彼女の乳房に爪を立てようとして
いた。手負いの山猫のように、掻き毟っていた。
 それも、されるままにしていた。白田の痛みを、少しでも、ともにしたかったのである。
箕島は、自分の最後の攻撃手段にも、効果がないと分かると、口ぎたなく罵り始めた。
「売女」
「娼婦」
「公衆便所」
「淫乱」
「化物」
 自分に対する非難は、すべて甘んじて受けた。
 しかし、白田を「女の屎」と呼ばれた時には、ついに堪忍袋の緒が切れた。般若のよう
な笑みが、その大きな口元からもれた。八重歯が牙のようだったという。
 マリヤは、自分の全体重を、遠慮なく箕島剛介の上に乗せていた。
「ぶぎゅっ」
 そんな音がした。箕島が潰れたのだった。静かになった。
「なんだ、もう終わりなの?つまらないわ」
 彼の襟首を右手に掴むと、ゆっくりと立ち上がっていた。頭を蛍光灯にぶつけないよう
に、細心の注意した。
 剣道場に集まった男達には、その時のマリヤの姿は、生涯忘れられぬ巨大なものとして、
心に残った。
 生身の姿よりも、何倍も大きく見えたという。天井まで巨大に膨れ上がっていくようだ
った。顔は紅潮して赤鬼のようだった。
「この卑怯者!」
 背中を少し丸めた鬼のような格好で、目の前にぶらさげた箕島の顔を、じっと見つめて
いた。天井まで聳えるような巨体だった。
 足元にいる男には、その顔の表情も見えなかった。体操服の下の胸元は、二基のミサイ
ルの先端のように剣道場の高く男を威嚇していたから。丸い尻のヴォリュームは、破壊力
を秘めた二つの砲弾のようだった。ブルマーの生地が、はちきれそうに充実していた。
 やや距離を取っていた者は、顔を見てしまった。殺気が、両の大きな黒い瞳に漲ってい
た。全身から、オーラのように発散されていた。
 ブルマーのくびれた腰に、左手をあてがっていた。それが、すらりと居合抜きの刀のよ
うに音もなく動いた。
 左手の二本の長い指が、フォークのように突き立っていた。手刀を作っていた。指先が、
箕島の眼球を向いていた。爪は切られていたが、指そのものが凶器だった。指だけで男た
ちの竹刀を握る手と、同じぐらいの長さがあった。
 小便を洩らしてしまう剣道部員が、続出したという。長い間、悪夢に出て来て魘される
ことになった。眦が吊り上がっていた。悪魔の面相だった。箕島先輩が殺されると、みん
なが思った。しかし、誰一人として、動けなかった。恐怖のあまりに、腰を抜かしていた
のだった。
 箕島が、それを見ないで済んだのは、幸福だったかもしれない。彼は、自動車に轢かれ
て、傷ついた子猫同然になっていた。意識はなかった。釣り下げられていた。その白足袋
を履いた足が、彼らの上空で、ぶらりぶらりと揺れていた。
「マリヤ、だめよ!」
 タカコの鋭い掛け声が、マリヤを正気に戻していた。友人としての絶妙のタイミングだ
った。
 次の瞬間に、マリヤの顔に、少女のようにいたずらっぽい笑みが戻っていた。箕島を、
荒っぽく、ゆさぶっていた。
 それで、意識を回復した彼は、血の交じった唾液を、彼女の巨大な体操服の胸めがけて
ぺっと吐いた。マリヤは、それを難なく避けた。床に、びちゃりと落ちた。中には、白い
ものが混じっていた。折れた歯だった。
「白田君に、謝ってくれるかしら?」
「だれが、女の屎に」
 マリヤは、もう無言だった。
 箕島を無造作に、ぽいっと放っただけのようだった。手首を反しただけだった。力は、
入っていないように見えた。しかし、結果的には、剣道場の壁に叩きつけたのと、同じ効
果があった。壁の板が、割れていたから。
 彼の、鍛えぬかれた運動神経の冴えだけが、無意識に受け身を取らせていた。そうでな
ければ、首の骨を折って死んでいただろう。もちろん、それもマリヤの計算の上だ。微妙
に、手加減をしていたのである。
 ただ、肋骨が、数本分は、折れたことだろう。そこまでは、計算に入れてあった。白田
の苦痛を、少しでも追体験してもらいたかった。
 目には目を。歯には歯を。社会科の歴史で習った『ハンムラビ法典』の文句を思い出し
ていた。危なかった。白田は、目を潰された訳ではないのだから。
 部員たちに主将の介護を頼んだ。マリヤは、狭苦しかった剣道場から外に出た。入り口
で思いっきり背伸びをした。背骨が窮屈だったのだ。骨が、ぼきぼきと鳴った。
「もっと思いっきり、やっつけちゃえば、良かったのに」と、真理。
「そうだよ、手加減しすぎだよ」と、ヨッシー。
 二人とも、興奮した口調だった。
「もういいんだ」
 マリヤは、さっぱりとした表情をしていた。
「さあ、行こうか」
 男子の剣道場から退出する、マリヤ姐御と、女子バスケットボール部の面々に敬意をこ
めて、男子生徒が左右に退いていた。花道を作ってくれたのだった。彼らが、暴君箕島剛
介を、どのように評価していたかが、一目瞭然に伝わってくる行動だった。
 この花道を、彼女たちは、ゆっくりと歩いていった。
 タカコが運動場の門を出たところで、みんなを代表して、練習を邪魔したことを丁寧に
詫びていた。五名全員が、深々と頭を下げていた。
「わたしならば、箕島君を、もっと、ぼこぼこにしてやっていたなあ」
 カオリンが、とくに長い腕を振り回して、男を空中に放り投げるような動作をしていた。
「そんなことしても、どうってことないもの。私達が、ただ大きく育ち過ぎちゃっただけ。
人間の男性は、雌熊には勝てないのよ」
「なによ、それって、私達が、雌熊だっていうわけ?」
 カオリンが、不満そうに、厚ぼったい唇を尖らしていた。
「……それ以上かも、知れない。怪物だわ」
 タカコの沈んだ口調は、みんなの顔を、はっと彼女の方に振り向かせるだけの力があっ
た。
「つい、百年程前までは、男と女は同じような大きさだったのよ。昔の写真を見れば分か
るわ。男も女も大人になっても、同じ背丈で、仲良く一枚の写真に映ってるわ。同じ人間
で。女だけが大きいなんて。普通じゃないわ。今が、おかしいのよ」
 タカコは、真剣を素手で受けとめて、怪我もしないマリヤの肌の強さを思っていた。昔
ならば、鋼鉄ではないだろうか。
 五人の巨大女子高生の影が、大きく大きく道に落ちていた。
「でも、マリヤは、白田君を大好きだと、大きな声で言った。それって、素敵なことだよ
ね」
 タカコは、うつむいていた顔を上げて、ことさらに明るい声で、仲間に同意を求めてい
た。女だって、人間の一員のはずだった。
「ほんとだよ、あたしも、外で聞いていて、感動しちゃった」
 真理は、黒雲の間から小さく顔をだしている夕陽に、頬を赤く染めていた。救急車とす
れ違っていた。誰かが通報したのだろう。
「でも、愛はほんとうに、これほどの体の大小の差異を、越えられるのだろうか?」
 タカコのつぶやきは、みんなの耳に届くか届かないぐらいの、小さなものだった。
 マリヤは黙って、手のひらの赤い線に滲む血を、舌で舐めていた。箕島の剣で切ったの
だった。胸元もひりひりとしている。箕島の爪で、引っ掛かれた痕が残っているだろう。
でも、こんなのは、白田君の受けた苦痛に比較すれば、なんでもなかった。むしろ新鮮な
刺激だった。
 いまは、ただ白田信晃が、病院で耐えているだろう痛みを、少しでも共有していたかっ
たのだった。それで満足だった。
 そのまま、当初の計画通りに、女子バスケットボール部の五名は、職員室に出頭してい
た。血判状の『誓約書』という、動かぬ証拠があった。箕島が最初に真剣を抜刀したとい
う事実も、剣道部以外の多数の証人がいたため簡単に立証された。マリヤが一週間、残り
の四名は、三日間の停学処分で済んだ。
 まもなく白田信晃が退院した。元気に通学するようになった。その後も、箕島剛介は、
なおしばらくの期間、自宅療養が必要だったという話である。
新・『第三次性徴世界シリーズ』・9
天女中学校剣道場の巻

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